長話

主にクイズについて書きます

番外編:わたしたちはどのくらい世界を共有しているべきか

まだ2本しか記事のない段階ですが、議論の種とは別の一考について、ここに記しておきます。(以下常体)

 

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「クイズをする」ためには、する人たちの間で共有されているべきものがある。

 

第一に「言語」だ。基本的にクイズは言語なくして成り立たない。ビジュアルクイズやイントロクイズなど、出題は言語なくしてなされることがあっても、それらに対する解答には原則として何らかの「言語」を通す必要がある。

(言語からの解放を目指すのであれば、「絵を描いて答える」「ジェスチャーで答える」などを複合することで、完全にノンバーバルなクイズを構成することは不可能ではなかろうが、今回記しておきたいことからは脱線するため割愛する。)

 

言語の他に、「知識」を共有しておく必要がある。出題される事柄についてある程度の前提知識を有していなければ、クイズは解答可能性を失う。小学生に『トリストラム・シャンディ』を問うクイズを出したとて?マークを浮かばせるだけであろうが、や『鬼滅の刃』なら答えてもらえる可能性があるだろう。

ここで注意したいのは、クイズをするのに必要な知識は「クイズをする人たちの間で共有されているか」が重要であって、「小学生でもわかるような一般性があるか」は不問である、ということだ。もちろんこれらにある程度の相関はあって、後者を満たせば前者が満たされることも少なくないだろうが、「必要とされている知識」の説明として後者は十分条件にすぎない。

 

では、「わたしたち」という「クイズをする人たち」は、いつもどのような知識を「共有されているもの」としているだろうか?

 

 

Q1. 人気バラエティ『はねるのトびら』のコーナー「回転SUSHI」で、常連客だった5人の外国人とは、ツカジョージ、イタチャイ、アブチャン、カジカラスと、秋山竜次が扮するロシア人の誰?

「懐かしいな〜」と思う人もいれば、「何が起こったのか分からない」という人も少なくないだろう。

問題文には「人気バラエティ」と表現されているが、『はねるのトびら』が放送を終了したのは2012年9月のこと。すでに視聴経験のない若年世代がせり上がってきているのはもちろんのこと、そもそもバラエティ番組が嫌いだったという人たちには、この「懐かしさ」が伝わらない。

わたしたちは、「文化」を共有して、クイズをしている。

 

Q2. 夫・清盛の没後は剃髪し「二位の尼」と称された女性で、壇ノ浦の戦い平氏が大敗を喫すると、安徳天皇を抱いて入水、海の底の都を目指したのは誰?

壇ノ浦の戦いの戦場で、平時子安徳天皇と共に心中した。そのとき、幼き天皇に対して「海の底にも都はございます」と言い聞かせながら海へと身を投げたという話は現代にまで伝承されている。

この悲劇的な話を知っている人に向けて組み立てられた問題は、平時子はおろか、安徳天皇壇ノ浦の戦いさえ知らない人にとっては、意を解せない形をしている。

わたしたちは、「深度のある知識」を共有して、クイズをしている。

 

Q3. 占い遊びの一種「こっくりさん」で、こっくりさんを宿すのはふつうどんなもの?

この問題は実際に、私の企画の中の「簡単な問題が出るラウンド」で出題されたものである。真にこの問題が簡単であるかについても、受け取り手によって様々に変化するだろう。

また、例えば解答者が「今日の企画は硬派な問題群だ」と感覚していた場合、このような問題が突然出ると「拍子抜け」して感じることがほとんどであり、これは「期待していた問題難度」から大きく外れる由縁に起きる現象である。

わたしたちは、「暗黙の了解」を共有して、クイズをしている。

 

Q4. 昨今ではCHEESE GARDENが販売する「御用邸チーズケーキ」も市の内外問わず人気を集める、古くから温泉地として有名な栃木県北部に位置する都市はどこ?

御用邸が3つあることを知っていれば3択に、そのうち「市」に所在するのは那須那須塩原市)しかないことを知っていれば、「〜市の内外」のタイミングで早押しをして、チーズケーキを知らずして推測解答することが可能なように設計されている。

御用邸の所在地の弁別が細かくできずとも、後半部分を聞くことで「塩原温泉」を連想できれば「那須市」との誤答は免れ、「栃木県北部」まで聞けば、数々のヒントを頼りにして答えに辿り着く可能性は高まる。

一方で、「御用邸チーズケーキ」は関東圏を中心に耳目を集めているもので、甘味が好きであったり、那須塩原近郊にゆかりのある人であれば、クイズをしたことのない人であっても知っている可能性は高い。

わたしたちは、「    」を共有して、クイズをしている。

 

 

ノーマライゼーションを強く意識するのであれば、以上のようなクイズはそもそも出題に耐えないものだ。ところが、これらは「共有されている人たち」にとってはこの意味深長ぶりがむしろ心地よく感じられるわけで、いわば「拡張された内輪ネタ」のような属性を持つ。誰とでもできるクイズは「誰とでもできる」ゆえに解答できたときの満足度が小さい可能性もあり、翻ってほとんどの人には共有できない事柄が出題されたとて打ち返せる人がいなければ空砲になり、期待された満足は実現されない。(注:クイズは必ずしも解答されるだけがその目的ではなく、クイズをきっかけに知った人の世界が拡張される可能性もある。)

この、絶妙な「出題者と解答者の世界の重なり」が、クイズの楽しみに強く繋がるのではないか、と考える。

 

わたしたちは、世界を共有して、クイズをしている。

学生系クイズ、カルトクイズ、それらはもっと小さな世界を共有することで成り立っている。

これらは程度によって、「ちょうどいい」にも、「理不尽」にもなりうる。このバランス感覚は常に要求されるものであり、どの程度重く見るかも各々に任されている。

 

 

わたしたちが「楽しく」クイズをするために、わたしたちはどのくらい世界を共有しているべきだろうか?

 

※記事内のクイズは、全て筆者による拙作である。