「忘れたくないものを忘れても平気になるため」に短歌を作っているという、これまでに『音楽』や『サイレンと犀』といった歌集を出してきた歌人は誰?
(拙作;2024年2月3日)
昨年6月発表のアルバム『ATTA』は、ジャケットに虹が燃やされているように見える写真を使ったことで物議を醸した、アイスランドを代表するポストロックバンドは何?
(拙作;2024年2月12日)
映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』で、フォレストの母が「何が起こるかわからない」という意味を含ませて言うセリフといえば、「人生は何の箱のようなもの」?
(拙作;2023年4月23日)
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2024年1月某日
不眠の症状が強まり、入眠剤が1錠では効かなくなってきたため、この日から処方量を増やしてもらった。
結果として寝つきは格段に良くなったが、眠る前の30分〜1時間ほどの記憶をほとんど失うようになってしまった。
この手の健忘症は副作用としてよくあるもので、心身に異常をきたしているわけではないが、その日から入眠前という時間は私にとって、「生きているが記憶の残らない時間」に変わってしまった。この状態は現在まで続いている。
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2024年2月3日
ある友人とLINEで話をしていて、そのなかで古本屋を紹介されたことがあった。この日は思い立って、その古本屋に足を運ぶことにした。
私的に営まれている古本屋は、「何を揃えて、何を揃えないか」「何をどこに配置するか」といったことを自由にアレンジできて、そこに個性が表れると思っているが、このお店にもそういった味がじゅうぶん感じられて、非常に充実感をおぼえた。
その日からしばらくの毎夜、収穫した本を手に取って読んでみては、本のことや自分のことを省察するようになるが、入眠前とあっては内容についてほとんど記憶として留めることができないので、知的好奇心や冒険心をくすぐられて買ったものの、覚えていることを要請されるような本たちには次第に触れなくなっていき、代わりにひとつの短歌集をよく読むようになった。
岡野大嗣『音楽』は、「わずかにでも感情を動かした時間と光景」について、短歌という形で留めることを目指して書かれている。その感性と感覚が自分の作問などにも通ずるなと思ったのもあって、歌を通じて感じられる、生(せい)の手触りを確かめるように読んでいた。
私にとって、この歌集を読むことは、自分の知的好奇心を満たしたいという、ふだん支配されている欲とは独立した動機の営みであって、それゆえに、歌集の内容をすみずみまで覚えていないこと、覚えていられないことは、たいした問題ではなかった。
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2024年2月12日
先述の友人と夜な夜なLINEをしているなかで、好きな音楽、とりわけ洋楽についての話になった。お互いに洋楽はそこまで聴き込んでいるわけではないし、僕はなおさらだから聞き手にまわるばかりだったが、「高校生の頃に、この曲を何度も聴いていた」というような話は心から楽しくて、とめどなく流れる語りをわくわくした面持ちで聞いていた。
その中で、「シガー・ロス」というバンドの話をされる。知らないバンドだ、と思ったが、どこか聞き覚えはあって、LINEの通知に気をつけながら検索してみると、やっぱりずいぶん最近見たような気がする。友人は「炎上案件があったからそれで目についたのかも」と手助けしてくれたが、はっきりした手応えはつかめず、気づけば別の話題に移っていて、そのことはすっかり忘れてしまっていた。
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2024年3月7日
もうすぐ終わるというAmazon Prime Videoのウォッチパーティ機能について、いままで一度しか利用したことがなく、このまま終えるのはもったいないと思い、映画を観ることにした。いきなりの呼びかけにもかかわらず、付き合ってくれる友人が2人も集まってくれた。
上映作品には『フォレスト・ガンプ/一期一会』を自分の一存でセレクト。単に興味があったのはもちろんだが、以前に『フォレスト・ガンプ』についてのクイズを作ったことがあったので、それが実際に鑑賞した後の自分にとってどのくらい「いやでないか」を確認してみたい、という下心もあった。
結果として、映画は素晴らしい名作で、かつての自作クイズはそれほどいやなものではなかったが、せっかくなのでこの折に新しく1問を作り直した。
バスを待ち続ける主人公のボロ靴に白い羽根がふわりとつくシーンで始まり、バスを見送って座り続ける主人公の革靴から白い羽根が旅立っていくシーンで終わる、合縁奇縁の男の生き様を描いたアメリカ映画は何?
(拙作;ルーティン外)
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2024年4月某日
自分のなかである意識変革が起こり、身内の観測ツールとしてのXに費やす時間がぐんと減って、代わりに本を読む時間がぐんと増えた。
先の古本を消化しているのかというとそんなことはそんなになく、それらをうずたかく積んだまま、手に入れたい、自分のものにしたいという衝動に駆られて買った本を、手当たり次第読んでみていた。
そんなことをしている一方で、積まれた本の中で物理的にきらりと輝く「音楽」の金文字が目に飛び込み、そういえばよく内容を覚えていないことを思い出し、再びこの歌集を手にとるようになった。それに目を通す時間は、夜だったり、夜でなかったりした。これが幸いして、あるひとつの歌に再会する。
シガーロスは高価なチョコレートの名前 そう刷り込んで聴かせてる夜
(岡野大嗣『音楽』「Various Artists」より)
衝撃が走った。なるほど、これが、シガー・ロスの既視感だったのか。そう思えば、当時、歌のなかの「シガーロス」が何だかわからなくて、左手でページをおさえながら、右手のスマホで検索した気がする。しかしそのほとんどすべてを忘れ去っていて、わずか10日ほどで再会したことにも気づいていなかった、ということに気づいたのだった。
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私は、自分の人生の中に、はっきりと「記憶が残らない時間」が生まれたことによって、かえって「記憶が残る時間」のことや、それがもたらす意味について、よく省みるようになった。
5年ほど前から、「経験と知識をリンクさせて、自分の頭に係留する」ということを、ほとんど人生の目的のようにして日々を送っていたのに、それに矛盾するような現象が起きたことで、目的を果たせないかもしれない「人生」と、幸運にも保持できている「記憶」について、さらによく考えるようになった。
私は、これまでもこれからも、いくつもの大切な出会いを経験し、そのいくらかを忘却しながら、生きていくだろう。
そんな私の人生について私は、「高価なチョコレートだった」と最後に思えるように、日々を営んでいるのかもしれない。
一方でまだ私は、忘れたくないものを忘れても平気になれていなくて、いつかそうあれるように、日々を営んでいたいのかもしれない。